モンテ・クリスト伯

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

子供の頃「岩窟王」を読んだのは覚えているけれど、改めて読むと面白い。
最近の、寝る前と通勤電車の中でのお楽しみ。

覚えておきたいので、引用

この世には、幸福も不幸もあり、ただ在るものは、一つの状態と他の状態との比較に過ぎないということなのです。
きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。
マクシミリヤンさん、生きることのいかに楽しいかを知るためには、一度死を思ってみることが必要です。
では、なつかしいお二方、どうか幸福にお暮らし下さい。
そして、主が、人間に将来のことまでわかるようにさせてくださるであろうその日まで、人間の慧智はすべて次の言葉に尽きることをお忘れなさらずに。

待て、しかして希望せよ!

自分の罪や苦しみに打ちのめされて、決心なんか出来ない。出来るとしても決心なんかしないということの決心だけ。生きているのは神の思し召しで、もし神様が救いを与えてくれるならそれも思し召しとしてすがりたいと思う。
というような事を言う人に対してのモンテクリスト伯が、
それは神をあがめる正しい仕方とは言えない。神は人が神の心を理解し、その力を考えてみることこそ望んでいる。そのために自由意志を与えられているのだ。
というように答えている。
この下りが一番好きかもしれない。
この事に気づかずには、「待て、しかして希望せよ」に至る文も理解出来ないように思う。

不幸とは何か、幸福とは何か。
定義すればそうなれるというものでもない。
それはただの在りようであると言うならば、自分がそう在ると決めなければならない。
「私は幸福である」と言えない人は何を抱えているだろうか。
誰かや何か、いつかに比べて劣っている事への恥ずかしさ、
言ったそばから失うかもしれない事に対する怯え、
それから?

自由意志というと、善も悪もありのままであるような、本能に従うことこそ正義のような、
欲望もまた仕方の無いこととして、自分で好き勝手に選択できるというものではない。
自分が決定している事は、本当に自分の意志で決定しているのか?
私はずっと子供の頃から自由意志について考えている。
分かるまで考えるし、死ぬまで考えるだろう。
ずっと考えているとその境界らしきものが何となく見える。
あまりそこだけを見過ぎると、怖い。
怖いと思っていいのだと思う。変な言い方だけれど。
それは正気と狂気の境目で、生と死の境でもあり、いつかそれを超えて行くのだろうなと思うけれど、
今じゃなくて良いんだ。
見たり聞いたり知りたい事があるから、まだいいんだ。

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中